ランディローズ
この人にも影響を受けましたね、聞くと一発で印象に残るリフやソロ、ギターフレーズのセンスが素晴らしいギタリストです。もちろんコピーしました。
「ロック・ギタリストで景響を受けた人はいない」
…そう言ったとか言わなかったとか。何にしても、ランディの音楽的ターゲットが少の頃からクラシックだった事は有名な話である。幼い時期からクラシカルな響きに浸っていた、音楽教師の両親、母は後にミュージック・スクールを開校した、その影響で兄弟姉妹の全員がミュージシャンの道に進んだというアカデミック・ファミリーにあっては、クラシック色に染まるのはもちろん、真面目に音楽を学姿勢も備わるのが、事の必然。寡黙に楽屋でギターを練習する生前の写真がよく掲載されるが、あれこそ終生アカデミズムを貫いたランデイの本質なのである。。
彼のクラシカル感覚は、旋律の面で発揮される事が多い。クラシック・ギターによるインストウルメンタル「Dee」を筆頭に、ブルース臭さを排余した叙情的メロディーの数々は、多くの後続ギタリスト達に影響を与えた。「速さに関してはアル・ディメオラ、ハーモニック・マイナー等のクラシカルな響きに関してはランディ・ローズからの影響」…そう話していたのはクリス・インペリテリだが、まさにこの言葉はランディのクラシカル・スタイルを言い得て妙。逆に言えばアルペジオ系のアプローチが少ない訳だが、その課題を持ったまま彼は天国へ逝ってしまった…・。
年表
■1956年12月6日:カリフォルニア州バーバンクでローズ家の次男として生まれる。
1歳半の時に父を失い、以後3人の子供達(ダグ、キャシー、ランディ)は母ドロレスが女手ひとつで育て上げる。自身も音楽家であり、私立音楽学校も所有するという彼女の支援によって、ランディは音楽的に非常に恵まれた環境の中で幼少期を過す。
■1963年頃:ランディにとってエルヴィス・プレスリーが唯一のアイドルとなった6~7歳の時、母の所有する音楽学校でギターのレッスンを受け始める(彼の最初のギターは、父が持っていたギブソンのアコースティック・ギターだった)。姉キャシーと一緒にレッスンを始めたランディは、母の勧めでピアノのレッスンも受けるが、余り長続きしなかった。しかし、楽譜を読む事をマスターする。
■1965年:8歳の時、ロック・ギターに目覚める。初めてのエレクトリック・ギターは、セミ・アコースティックの“ハーモニー・ロケッドだった。
■1969年:12歳になったランディは、母の音楽学校でエレクトリック・ギターを教えていたギタリスト、スコット・シェリーからレッスンを受ける。そして、スコットが「僕が教えられる事は、彼は総て覚えている」と母ドロレスに告げるまで、ほぼ1年くらいの間、彼とのレッスンは続いた。
■1971年:14歳のランディは、初めてのバンド”ヴァイオレット・フォックス”を結成。
母ドロレスのミドル・ネーム “ヴァイオレッドに因んで名前が付けられたというこのバンドでは、兄のダグがドラムをプレイし、その活動期間は約5ヵ月ほどだった。
■1975年:幾つかのローカル・バンドでプレイする傍ら、母の音楽学校でギターの講師も務めるようになり、「生徒に教える事で逆に多くの事を学んだ」・・・と、後に振り返る。
クワイエット・ライオット
■1976年:ランディを中心に、クワイエット・ライオットが結成される。デビュー・ギグには1,500人以上ものファンが押し寄せた。
■1977年6月:デモ・テープを制作し、各国のレコード会社に売り込みを開始したクワイエット・ライオットは、日本のCBSソニー(現SMEインターナショナル)との契約を得て、L.A.のウォリー・ヘイダー・スタジオでデビュ一作「QUIET RIOT」を録音する。
■1978年3月:「QUIET RIOT」発表(全米では評価を得られずリリースされなかった)。
■6月:L.A.のレコード・ブラント・スタジオで、「QUIET RIOT II」の制作開始。
■秋:レコーディング直後、メンバー・チェンジが起こる。ランディの推薦によって新べーシストにルディ・サーゾが迎えられた。
■12月:「QUIET RIOT II」発表。この2ndアルバムも、遂に全米リリースには至らなかった。また、これがランディ在籍時の最後のスタジオ・アルバムとなる。
オジー・オズポーン
■1979年初頭:「ブラック・サバスを脱退したオジー・オズポーンが新しいギタリストを探している」とルディから教えられたランディは、友人ダナ・ストラム(スローター)の勧めもあり、オジーのオーディションに足を運ぶ。オジーはランディの採用を即決する。
■9月22日:クワイエット・ライオットがL.A.で行なったショウで、カール・サンドヴァルが製作した“黒地に白の水玉模様”のVシェイプ・モデルをプレイする。恐らく、ステージで使用したのはこれが最初と思われる。
その後、ランディはクワイエット・ライオットを去り、バンドは自然消滅して行く。
■11月:「BLIZZARD OF OZZ」制作に臨むオジー・バンドのメンバーが固まる。
■1980年3月22日:ロンドンのリッジ・ファーム・スタジオで「BLIZZARD OF OZZ」のレコーディングが開始される。
■4月:クワイエット・ライオットの1回限りの再結成ライヴに参加するため、ランディは一旦L.A.に戻る。
■8月:1stシングル「Crazy Train」が先行リリースされる。
■9月12日:「BLIZZARD OF OZZ」発表。
この日に行なわれたグラスゴーのアポロ・シアター公演を皮切りに、34ヵ所を廻る初の全英ツアーがスタートし、アルバムは発売直後、全英チャート15位まで急上昇。
そして、大絶賛を浴びたオジーの復活劇以上に注目を集めたのは“弱冠23歳の新ギター・ヒーロー=ランディ・ローズだった。
■12月:クリスマスのオフでカリフォルニアに戻ったランディは、グローヴァー・ジャクソンとシグネチュア・モデル”ランディV”の製作ミーティングを行なう。
■1981年1月:「DIARY OF A MADMAN」のレコーディングがスタートし、再びリッジ・ファーム・スタジオに入る。
■2月:レコーディング作業を進めるランデイのもとに、完成した“ランディV”が届く。
■3月:全英を制覇したオジーは「BLIZZARDOF OZZ」のアメリカでのディールを獲得し、半年遅れでアメリカ発売がいよいよ実現。
■4月22日:「BLIZZARD~」アメリカ発売に伴う北米ツアーを開始。9月まで続く。
■10月:「DIARY OF A MADMAN」発表。
■11月:ヨーロッパ・ツアーに出る。
■12月30日:瞬く間に「DIARY~」がプラチナ・ディスクに輝いたアメリカでも大規模なアリーナ・ツアーが始まる。
しかし、悲劇は突然訪れた・・・・・・一
■1982年3月19日午前9時:ツアー中のフロリダ州レスパーグで、ランディとメイクアップ・アーティストを乗せた小型飛行機が墜落、操縦士を含む3人が即死。
若きギター・ヒーローが今まさに、その大いなる栄光の可能性を開花させようとしていた矢先の出来事だった。•・・・・・享年25歳。
まさに早すぎる死でした。彼の残した音楽は、今もなお多くのギタリストや音楽ファンに影響を与え続けています。もし彼が生きていたら、間違いなく音楽界の歴史は大きく変わっていたでしょう。
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