マディ・ウォーターズ:シカゴ・ブルースの父、その音楽と影響を徹底解説!

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はじめに

1940年代から 50年代初頭、ブルースは軽いジャジーな娯楽音楽になっていた。その状況からブルースを救ったのが、原始的なパワーにあふれたマディ・ウォーターズの音楽である。マディがシカゴ・ブルース・シーンに揺さぶりをかけ、デルタの源流に戻したからこそ、ジョン・リー・フッカーやハウリン・ウルフ、そしてエルモア・ジェイムズは多くの聴衆を得た。マディがいなければ、ローリング・ストーンズも、ジミ・ヘンドリクスも、エリック・クラプトンも、音楽界の頂点に立つことはなかったーそしてロックも全く違う道をたどったに違いない。

偉大なるブルースマン!マディ・ウォーターズに焦点を当てていきます!!!

マディ・ウォーターズの生涯

 幼少期とデルタ・ブルース時代(1913〜1943年)

マディ・ウォーターズは、1915年ミシシッピ州ローリング・フォーク生まれ、本名マッキンリー・モーガンフィールド。デルタ・ブルースの中心地ストーヴァル農園で、地元のブルース・ミュージシャンの音楽を聴きながら育つ。

彼は幼い頃から教会音楽やカントリーブルースに親しみ、影響を受けた中には、サン・ハウス、ロバート・ジョンスン、ロバート・ナイトホーク、ロバート・ロックウッド・ジュニア、ハービストのサニー・ボーイ・ウィリアムスンⅡがいた。

デルタ・ブルースの巨匠たちの音楽に影響を受けました。

1930年代後半には、ミシシッピ・デルタ地方のジュークジョイント(酒場)でギターを弾きながら歌うようになり、ブルースマンとしてのキャリアをスタートさせます。マディは後に、登場したばかりのエレクトリック・ギターをブルースに導入することになるが、若いころは伝統的なアコースティック・ブルース・プレイヤーだった。

初期のスタイルは、1941年に伝承音楽研究家アラン・ロマックスが国会図書館の資料用に録音した音源で聞くことができる。

シカゴ移住とエレクトリック・ブルースの誕生(1943〜1950年)

1943年、マディはブルースマンとしての成功を夢見てシカゴへ移住。ギタリストのジミー・ロジャーズとコンビを組み、クラブやハウス・パーティーで演奏するようになる。当時のシカゴでは、アコースティックギターでの演奏が主流でしたが、街の喧騒の中では音がかき消されてしまうという問題がありました。

そこで彼は、エレクトリック・ギターを導入。アンプを使って音を大きくし、バンド編成で演奏するスタイルを確立しました。これが、後に「シカゴ・ブルース」と呼ばれるジャンルの誕生につながります。

代表的な初期の楽曲(1940年代〜1950年代)

  • 1947年、ピアニストのサニーランド・スリムをバックに迎え、デビュー盤となる(ジプシー・ウーマン (Gypsy Woman)>リトル・アナ・メイ(Little Anna Mae)>を録音。

  • 1948年にはべースをバックにしたソウルフルなカップリング盤<アイ・キャント・ビー・サティスファイド (Canit Be Satisfied)/フィール・ライク・ゴーイン・ホーム(Feel Like Coin’ Home)>がヒットする。
  • 1950年代にはギタリストのジミー・ロジャーズ、ハービストのリトル・ウォルターらとパンドを結成。リズムとリード・ギターをミックスした独特のスタイル「フィリン・イン・ザ・クラックス(すき間を埋める)」を作り上げた。このころ録音されたくフーチー・クーチー・マン(Hoochie Coochie Man)><ガット・マイ・モジョ・ワーキング (Got My Mojo Working)><マニッシュ・ボーイ(Mannish Boy)>などは、ブルース新時代の到来を告げる歴史的な名曲だ。
  • 「Hoochie Coochie Man」(1954)
  • 「I’m Ready」(1954)

この時期にチェス・レコード(Chess Records)と契約し、本格的にレコーディングを開始。彼のブルースは、ますます力強くなっていきました

1950年代、マディ・ウォーターズ・バンドはシカゴ最強のバンドとして街に君臨するが、やがて黒人の衆はプルースを離れソウル・ミュージックやR&Bへと向かう。

ロックへの影響と世界的成功(1950〜1970年代)

だがマディは1963年から 64年にかけて、若きバディ・ガイをギタリストに迎え、アコースティック・アルバム「フォーク・シンガー(Folk Singer)」を録音。新たに白人の層を獲得する。

マディ・ウォーターズの音楽は、ブルースだけでなく、ロックンロールの誕生にも大きな影響を与えました。

影響を受けたアーティストたち

  • ザ・ローリング・ストーンズ(バンド名はマディの「Rollin’ Stone」から)
  • エリック・クラプトン(ブルースをロックに融合)
  • レッド・ツェッペリン(ブルースの要素を取り入れたハードロック)
  • ジミ・ヘンドリックス(ブルースを基盤としたエレクトリック・ギター・プレイ)

また、1960年代にはイギリスのブルースブームの影響で、マディはヨーロッパでも大きな注目を集めるようになりました。特に、1964年の「Muddy Waters at Newport」のライブアルバムは、彼の影響力を世界的に広めるきっかけとなりました。

晩年とレガシー(1970〜1983年)

1970年代に入ると、マディはジョニー・ウィンターのプロデュースのもと、新しいブルースアルバムをリリース

代表的な晩年のアルバム

  • 「Hard Again」(1977)(グラミー賞受賞)

  • 「I’m Ready」(1978)

  • 「King Bee」(1981)

マディは1983年にこの世を去りましたが、その音楽は今なおブルースやロックの世界で生き続けています。

マディ・ウォーターズの最大の功績は、ブルースの源流であるダウン・ホーム・デルタ・スタイルを発展させて荒々しく都会的なシカゴ・ブルース・スタイルを確立し、やがロックへと続く潮流を生み出したことである。また彼は、多くの一流ミュージシャンの親代わりになり、フォーク/ジャズ・ファンを本物のブルースに開眼させ、数々の名曲を進した。マディの音楽は今でも人々の心に熱く語りかけてくる。

ギタースタイルと特徴

バンドリーダーとして絶大な影響力を持っていたマディ・ウォーターズ。

彼のギター・プレイもまたパワフルだった。

使用ギター

初期にはディアルモンド・ピックアップを搭載したグレッチのアーチトップやゴールドトップのレスポールを手にしているが、1957年に購入したテレキャスターこそ、ブルース界で語り継がれている有名なギターだ。マディはそのギターを「ホス(Hoss)」と名付け、ボディーの色をホワイトからメタリック・レッドに塗り替えた。1961年にはローズウッド材の指板を張った幅広タイプのネックに交換。さらに、ビックガードを固定するねじを追加。金属製ノブをフェンダー・アンプの黒いプラスチック製に取り替える。

弦 ピック チューニング

弦はギブソン製のミディアム・ゲージ、012~056(約0.30~1.12mm)。3弦には巻弦ではなくプレーン法を張り、弦高は高く設定。

金属製のサムピックとフィンガービックを右手に付け、短い金属製のスライド・パーを左手の小指にはめた。

カボを付けることも多かった。

チューニングはほとんどの場合スタンダード。

アンプ

アンプは、10インチ(25.1cm)・スピーカー4基/40ワットのフェンダー製スーパー・リヴァーブ、リヴァーブ機能もトレモロ機能も使わず、ヴォリュームは9にセットし、ギターで全レベルをコントロールした。

まとめ

マディ・ウォーターズの最大の功績は、ブルースの源流であるダウン・ホーム・デルタ・スタイルを発展させて荒々しく都会的なシカゴ・ブルース・スタイルを確立し、やがロックへと続く潮流を生み出したことである。また彼は、多くの一流ミュージシャンの親代わりになり、フォーク/ジャズ・ファンを本物のブルースに開眼させ、数々の名曲を進した。マディの音楽は今でも人々の心に熱く語りかけてくる。

 

 

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