リッチーブラックモア
この人のギターにもはまりましたねー!クラシカルな中にもブルージーな要素が光る、素晴らしいギタリストです!もちろんコピーしましたね!!!
“ストラトキャスターの魔神”!
当時の誰よりもクラシックから旋律と手法を取り入れたギタリストがリッチーであり、そのスタイルがその後のロック・シーンにも影響を及ぼしたという点で、御大の功績は計り知れないですね。彼かクラシカル・プレイをするのは、それ風(つまりクラシカル風)のアレンジと密接な関係にある場合が多い、それも事実である。例えば、周囲がブルースだろうと、隙あらば古典的旋律を差し込む動物的クラシカル筋肉のイングヴェイとは、そもそもクラシカル表現の強引さが異なる。古くは、ディープ・パープル時代のオーケストラ共演 CONCERTO for Group and Orchestraしかり代表的ソロで言えば「Burn」という事になるか…、とにかく、これらクラシカルな旋律を出さざるを得ない場面で、リッチーのクラシカル度は発揮される。つまり言い換えれば、彼はアレンジャーとしてクラシカル要素を巧みに取り入れた偉人なのである。
また、その“クラシカルには、初のソロプロジェクト、ブラックモアズ・ナイトの「SHADOW OF THE MOON』で聴かせた中世音楽、ジブシー音楽等々のファクターが多分に含まれている事も重要な1つ。ギター・プレイで言えば、いわゆる“中近東風フレーズにそれは色濃く表れている。
年表
リッチーブラックモアの歴史を振り返ります
幼少期
■1945年4月14日:イギリスのウエストン・スーパー・メアで生まれる。
海岸沿いの小さなこの田舎町で幼少期を過ごしたリッチーは、”50年代に入った頃、家族と共にロンドン郊外のヘストンへと移り住み、小学校へ通い始める。
■1956年4月14日:11歳の誕生日に父親から、フラマスの7ポンドのスパニッシュ・ギターをプレゼントされる。
■9月:クラシック・ギターのレッスンを受け始める。そして、2人目のギター教師となった”ビッグジム・サリヴァン(近所に住んでいた一流のセッション・プレイヤー)からは、ピッキング・テクニックとロックンロール・スタイルのプレイを学ぶ。
■1959年:14歳の時、父が、リッチーにとって初めてのエレクトリック・ギター、ホフナ一のクラブ50を23ポンドで購入してくれる。
■12月24日:クリスマス・イヴにパブ・レストラントウィッケンナム”で初舞台を経験し、ギタリストになる事を決意する。
プロキャリアスタート
■1960年:ホフナー・クラブ50から、チェリー・レッドのギブソン ES-335に持ち替える。
ソーホーのコーヒー・バー “21”にジュニア・スキッフル・グループの一員として参加し、プロ・キャリアをスタート。
■1963年6月:ハンブルクで、マイク・ペリ一のバック・バンド、アウトローズに参加。
その後は、スリー・マスケティアーズや、”スクリーミングロード・サッチのバック・バンド、ローマン・エンパイアを経る。
ディープ・パープル
■1968年4月:第1期 ディープ・パープルが始動。同年5月に 1 st「SHADES OF DEEP PURPLE 」8月には2nd 「THE BOOK OF TALIESYN」をレコーディングする。
■9月:「SHADES~」発表
■1969年1月:ド・レイン・レッド・スタジオで3rd「DEEP PURPLE」を録る。
■6月:メンバー・チェンジに伴い、イアン・ギラン(Vo)とロジャー・グローヴァー(b)が参加、黄金の第2期がスタート。
■7月:「THE BOOK~」発表。
■9月24日:ロイヤル・アルバート・ホールに於いてロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラと共演し、ライヴ収録を敢行。
■11月:「DEEP PURPLE」発表。
■1970年1月:先のロイヤル・フィルとの共演ライヴ作「CONCERTO for Group and Orchestra」を発表。
■6月:”リッチー・ブラックモア神話の起点とも言える「DEEP PURPLE IN ROCK」を発表。メイン・ギターをギブソンES-335からフェンダー・ストラトキャスターに切り替えたリッチーは、狂気張る極限のプレイを炸裂させ、前人未到の音世界を展開する。
■1971年9月:「FIREBALL.」発表。全英アルバム・チャートで初のNo. 1を獲得。
■1972年5月:ロック史上永遠の歴史的名盤「MACHINE HEAD」がリリースされ、リッチ
一のプレイは当時のギター・シーンに空前絶後の衝撃を与えた。
■8月:初の来日公演が実現。ライヴ・レコーディングも行なわれ、同年12月に「LIVEINJAPAN」発表(日本以外では「MADE IN JAPAN」としてリリースされた)。
■1973年3月:「WHO DO WE THINK WE ARE!」発表。
■6月:2度目の来日公演を最後に、ロジャーとギランが脱退。“第2期終了。
■11月:グレン・ヒューズ(b,VO)、デイヴィッド・カヴァーデイル(Vo)を迎えた“第3期
ラインナップで「BURN」制作。
■1974年2月:「BURN」リリース。
■4月6日: “カリフォルニア・ジャム”に出演。リッチーは、迫って来たTVカメラに怒り、カメラにギターを叩き付け、さらにスピーカー・キャビネットを炎上させた。
■10月:ギタリストを除くエルフのメンバー4人(ロニー・ジェイムズ・ディオ[vo]etc.)
とソロ・シングルをレコーディング。パープル脱退~ソロ制作への意志を固める。
■12月:「STORMBRINGER」発表。
RITCHIEBLACKMORE’S RAINBOW
■1975年2月:エルフの4人と共に「RITCHIEBLACKMORE’S RAINBOW」を制作。
■6月5日:リッチーのディープ・パープル脱退が正式発表される。
■8月:「~’SRAINBOW」リリース。
■1976年2月:ロニー以外のメンバーを一新、ドラムにはコージー・パウエルを迎える。
■4月:「RAINBOW RISING」発表。
■12月:レインボー初来日公演。
■1977年7月:「RAINBOW ON STAGE」発表。
■1978年1月:2度目の来日公演。
■5月:「LONG LIVE ROCK’N’ROLL」発表。
■12月:ロニーが脱退。
■1979年初頭:フランスの古城、シャトー・ペリー・デ・コンフェルドで「DOWN TO EARTH」
制作開始。ヴォーカリストにはグラハム・ボネットの加入が決定する。
■8月:「DOWN TO EARTH」発表。
■1980年5月:3度目の来日公演。
■8月16日: “モンスターズ・オブ・ロッグのステージ終了後にコージーが脱退。
■9月:コペンハーゲン(デンマーク)のス
ウィート・サイレンス・スタジオで「DIFFICULTTO CURE」制作開始。
■12月:グラハム突如失踪。後任にはジョーリン・ターナーが参加。
■1981年2月:「DIFFICULT〜」発表。
■8月:4度目の来日公演。
■1982年4月:カナダで録音した「STRAIGHT BETWEEN THE EYES」を発表。
■10月:5度目の来日公演。
■1983年10月:「BENT OUT OF SHAPE」発表。
-翌’84年にレインボー解散。リッチーは再結成ディープ・パープルに参加する・・・。
リッチー・ブラックモア 1984年以降の年表
リッチー・ブラックモアの1984年以降の活動は、ディープ・パープルの再結成、レインボーの再結成、そしてブラックモアズ・ナイトの結成と、非常に興味深いものとなっています。
1984年:ディープ・パープル再結成
- ディープ・パープルが再結成され、リッチーは再びバンドの中心人物として活躍。
- 再結成後初のアルバム『パーフェクト・ストレンジャーズ』をリリース。
1984年 – 1993年:ディープ・パープル時代
- 数枚のアルバムをリリースし、世界ツアーを敢行。
- クラシック音楽の影響を強く受けた楽曲も多く発表され、ディープ・パープルの音楽性にも変化が見られた。
1993年:ディープ・パープル脱退
- 音楽性の違いにより、ディープ・パープルを脱退。
1995年 – 1997年:レインボー再結成
- レインボーを再結成し、数年間の活動を行う。
- 新しいメンバーと共に、再びハードロック・シーンに旋風を巻き起こす。
1997年 – 現在:ブラックモアズ・ナイト
- ブラックモアズ・ナイトを結成。
- 中世風のフォーク・ロックを基調とした音楽を奏で、新たなファン層を開拓。
- 現在も精力的に活動しており、世界中でコンサートを行っている。
2010年代以降
- ディープ・パープルとの関係が修復され、2016年にはロックの殿堂入り。
- ブラックモアズ・ナイトを中心に活動しながらも、時折ディープ・パープルとしての活動も行っている。
リッチー・ブラックモアさんの来日公演を心待ちにしているファンの方も多いかと思います。2025年1月の現時点では具体的な情報はありませんが、諦めずに最新の情報をチェックし続けましょう。
もし、来日公演が実現すれば、それは日本のロックファンにとって大きな喜びとなるでしょう。
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