はじめに
さて今回は プレシジョンベースをfender大名鑑から取り上げてみたいと思います。歴史的にも非常に興味深いものです。
開発

1950年に世界初の量産型ソリッドボディー・ギターを創造した後、レオは次に開発する楽器の対象として別種のミュージシャンに目を向ける。
彼自身ミュージシャンではなかったからこそ、 先入観や既成の概念に縛られず、想像力のおもむくままに楽器を作ることができた。
レオは 持て余すほど大きいセミアコースティックだったエレクトリック・ギターを、 軽量でめったに壊れず大音量にしてもほとんどフィードバックを生じない楽器に進化させた。 ではベースプレイヤーのためにも同じことができるのではないか? この単純だが天才的なひらめきが、 またもやポピュラー・ミュージックに大変革をもたらす。
1950年代初めまで、ベースプレイヤーはほとんどの場合、 バイオリンをそのまま大きくしたような形の 「ダブル」ベースあるいは「フィドル」ベースと呼ばれる楽器 (和製英語ではウッド・ベース) を真っすぐ立てて弾いていた。巨大なホロウ・ボディーに大きなfホールという500年前から変わらないデザインは、太い弦が生み出す音を深く響かせるために必要だった。
1950年代初めまで、ベースプレイヤーはほとんどの場合、 バイオリンをそのまま大きくしたような形の 「ダブル」ベースあるいは「フィドル」ベースと呼ばれる楽器 (和製英語ではウッド・ベース) を真っすぐ立てて弾いていた。巨大なホロウ・ボディーに大きなfホールという500年前から変わらないデザインは、太い弦が生み出す音を深く響かせるために必要だった。
ネックにはフレットがなく、普通は弓で弦を弾いた。やがて20世紀初頭にジャズ・ミュージシャンたちが現れ、 弦を指ではじいてリズミカルなサウンドを生み出すようになる。 大音量の金管セクションやドラムに負けない強烈な音を出すためだ。
1920年代から30年代には、ギブソン ドブロ、 リーガルといったメーカーが、 フレット付きでボディーの形も従来とは異なる縦型 (アップライト)の大型アコースティック・ベースを作った。 クラシック音楽以外のミュージシャンを引きつけるためだったが、大き過ぎるサイズはそのままだったのでほとんど売れなかった。 やがてアンプで増幅した音楽が普及し、ベースのサウンドは他の楽器の音にかき消されるようになる。
リッケンバッカーやリーガルなどが小型のエレクトリック・ベースを作ったが、相変わらずフレットはなく、 楽器を立てないと弾けないデザインだった。
ソリッドなレオのアイデアはごく単純で、 なぜそれまで誰も思いつかなかったのか不思議なくらいだ。 エレクトリック・ベースをギターと同じく横向きにして、ネックにフレットを付け、ボディーをテレキャスターのように小さくし、 フィードバックを防ぐために空洞のない木材製にすればいいのだ。 こうして1951年夏、 全く新しい楽器、 エレクトリック・ベース・ギターが誕生した。 レオがつけたプレシジョンベース (Precision Bass)というモデル名は、 まさに言い得て妙である(precision は 「正確な」。 フレットが付いていたため、正確な音程で弾くことができた。
ソリッドなレオのアイデアはごく単純で、 なぜそれまで誰も思いつかなかったのか不思議なくらいだ。 エレクトリック・ベースをギターと同じく横向きにして、ネックにフレットを付け、ボディーをテレキャスターのように小さくし、 フィードバックを防ぐために空洞のない木材製にすればいいのだ。 こうして1951年夏、 全く新しい楽器、 エレクトリック・ベース・ギターが誕生した。 レオがつけたプレシジョンベース (Precision Bass)というモデル名は、 まさに言い得て妙である(precision は 「正確な」。 フレットが付いていたため、正確な音程で弾くことができた。

開発の背景と主な特徴:
- ウッドベースの課題: 当時のポピュラー音楽ではウッドベースが主流でしたが、音量の問題や演奏性の制約がありました。
- ギターのノウハウ: レオ・フェンダーは、エレキギターの開発で培った技術を応用し、ソリッドボディ構造、ピックアップによる集音、アンプによる増幅というエレキベースの基本構造を確立しました。
- フレットの採用: プレシジョンベースの最大の特徴の一つが、ギターと同様のフレットが付いたネックです。「プレシジョン(正確な)」という名前は、フレットによって正確な音程が出しやすいことに由来します。これにより、ベース初心者でも比較的容易に演奏できるようになりました。
- シングルコイルピックアップ: 初期のプレシジョンベースは、1つのシングルコイルピックアップを搭載していました。これにより、パワフルでクリアなサウンドが得られました。
- シンプルなコントロール: ボリュームとトーンの2つのコントロールノブを備え、シンプルな操作性も特徴でした。
- ボルトオンネック: ネックがボディにボルトで固定される構造を採用し、量産性とメンテナンス性を高めました。
エレクトリック・ベースのプロトタイプ

エレクトリック・ベースのプロトタイプが作られたのは1951年夏。1949年にエスクワイアのプロトタイプを開発した時のように、レオはガリオン・ブラザーズ、ビル・カースンといった地元のミュージシャンや友人に試奏を頼んだ。 できるだけ良質な低音を生み出すために、 ネックは34インチのロング・スケールを採用。 しかしこの長いネックと釣り合うよう、それまでレオが手がけたエレクトリック・ギターよりボディーを大きくしなければならなかった。 ボディー・シェイプはテレキャスタ
ーと異なり、装着した時のバランスを取るため左右非対称のホーン(角)が突き出している。 6弦モデルと同じくボディーは厚く、縁は削らず角張ったまま残された。 専用に開発したポールピース4本付きのシングルコイル・ピックアップを1基搭載。 ペグはアップライト式アコースティック・ベースのものを流用し、 弦は当初ピアノ用を張ったようである。製品化された初期のプレシジョン・ベースは、テレキャスターと同じブロンドフィニッシュで、ピックガードも黒いフェノライトブラスチック製。 頑丈なメイプル材のネックに、 テレキャスター型の大きいへレッドが付けられた。 ペグはアップライト式ベースのものとよく似たクルーソンの特注品。 またレオは弦メーカーのV・C・スクワイア社と共同で、プレシジョン専用にスチール・コアのフラット・ワウンド弦を開発した。 ヴォリュームトーンコントロールはクロームめっきの金属プレートに搭載。 クローム製のブリッジとピックアップ・カバーが標準装備された。 ゴム製ミュート ( 弦をダンピングしてアップライト式ベースのようなトーンにする)がブリッジカバーの裏に付けられたが、ミュートをかけない音を好む人が大半で、ほとんどのプレイヤーはこれを外していた。 シンプルなブリッジのサドルは2つに分かれ、それぞれ弦2本のイントネーションを(完璧とまではいかないが) 調整できるようになっていた。 ボディー前側、 トップG弦のすぐ下に、黒くペイントされた木製のフィンガーレスト (タグ・バー」) がねじ止めされた。 この仕様は、 親指で弦を弾くことが多いアップライト式ベースのプレイヤーを前提にしたもので、 親指以外の指を支えるのが目的だった。 間もなくプレシジョンは他の指を使って演奏されるようになるが、 フィンガーレストはフェンダー黄金期を通じてすべてのフェンダー・ベースに標準装備された。出荷用のプレシジョン・ベースをラジオ・テル社が初めて受け取ったのが1951年11月。 翌年の4月には、TVフロントのベースマン アンプと並んだ写真広告が初登場した。 しかしミュージシャンたちがこの新しい楽器の扱いに戸惑っため、売り上げはなかなか伸びなかった。いち早くプレシジョンを手にしたのが、ジャズプレイヤーのモンク モンゴメリー、ロイ・ジョンソン、シフティ・ヘンリーである。 彼らはベースをアップイト式から水平に構えるスタイルに変えても 「全く問題ない」ことを証明した。それまでフェンダーといえば、テレキャスターや一連のスティール・ギターがこぞって使われたウエスタンやカントリーのイメージが強かった。しかしアフリカ系アメリカ人のジャズプレイヤーがフェンダーの新製品を愛用したおかげで、そのイメージはぬぐい去られた。
ーと異なり、装着した時のバランスを取るため左右非対称のホーン(角)が突き出している。 6弦モデルと同じくボディーは厚く、縁は削らず角張ったまま残された。 専用に開発したポールピース4本付きのシングルコイル・ピックアップを1基搭載。 ペグはアップライト式アコースティック・ベースのものを流用し、 弦は当初ピアノ用を張ったようである。製品化された初期のプレシジョン・ベースは、テレキャスターと同じブロンドフィニッシュで、ピックガードも黒いフェノライトブラスチック製。 頑丈なメイプル材のネックに、 テレキャスター型の大きいへレッドが付けられた。 ペグはアップライト式ベースのものとよく似たクルーソンの特注品。 またレオは弦メーカーのV・C・スクワイア社と共同で、プレシジョン専用にスチール・コアのフラット・ワウンド弦を開発した。 ヴォリュームトーンコントロールはクロームめっきの金属プレートに搭載。 クローム製のブリッジとピックアップ・カバーが標準装備された。 ゴム製ミュート ( 弦をダンピングしてアップライト式ベースのようなトーンにする)がブリッジカバーの裏に付けられたが、ミュートをかけない音を好む人が大半で、ほとんどのプレイヤーはこれを外していた。 シンプルなブリッジのサドルは2つに分かれ、それぞれ弦2本のイントネーションを(完璧とまではいかないが) 調整できるようになっていた。 ボディー前側、 トップG弦のすぐ下に、黒くペイントされた木製のフィンガーレスト (タグ・バー」) がねじ止めされた。 この仕様は、 親指で弦を弾くことが多いアップライト式ベースのプレイヤーを前提にしたもので、 親指以外の指を支えるのが目的だった。 間もなくプレシジョンは他の指を使って演奏されるようになるが、 フィンガーレストはフェンダー黄金期を通じてすべてのフェンダー・ベースに標準装備された。出荷用のプレシジョン・ベースをラジオ・テル社が初めて受け取ったのが1951年11月。 翌年の4月には、TVフロントのベースマン アンプと並んだ写真広告が初登場した。 しかしミュージシャンたちがこの新しい楽器の扱いに戸惑っため、売り上げはなかなか伸びなかった。いち早くプレシジョンを手にしたのが、ジャズプレイヤーのモンク モンゴメリー、ロイ・ジョンソン、シフティ・ヘンリーである。 彼らはベースをアップイト式から水平に構えるスタイルに変えても 「全く問題ない」ことを証明した。それまでフェンダーといえば、テレキャスターや一連のスティール・ギターがこぞって使われたウエスタンやカントリーのイメージが強かった。しかしアフリカ系アメリカ人のジャズプレイヤーがフェンダーの新製品を愛用したおかげで、そのイメージはぬぐい去られた。
初期のモデル:
1951年に登場したプレシジョンベースは、テレキャスター(Telecaster、当時はブロードキャスター Broadcaster)ギターのデザインをベースにしたスラブボディ(平らなボディ)を持っていました。ピックガードは黒色の1プライで、ピックアップカバーも黒色でした。
広く普及していく。
ドン・ランドールは商機を逃さずキャンペーンを押し進める。 当時は楽器メーカーがギターの販促戦略に人種的な観点を取り入れ始めたばかりであり、ジャズ・ミュージシャンの写真を使ったフェンダーの広告はその先駆けとなった。 1952年夏に開かれたいくつかの見本市で、ドン・ランドールは他のフェンダー製品の隣に堂々と新製品のベースを展示。 しかし過去の教訓に学ぼうとしないライバル・メーカーは、 またもや新しい楽器にあざけりの目を向けたのである。プレシジョンベースの価格は199ドル50セント。 パートナーのベースマン・アンプは203ドル50セント。 1952年当時、 どのミュージシャンにとってもプレシジョンを買うには一大決心が必要だった。高品質のアップライト式 「フィドル」・ベースで有名だったエピフォンの場合、同年のカタログを見ると最高級機種のB4-Sが310ドル。 かなりの額だが、それでもフェンダーのセットを買うより100ドル近く安い。 しかし
プレシジョンには、大金を出しても惜しくない重要な長所があった。 ダブル・ベースに比べると音量が大きいばかりでなく、非常に軽量で持ち運びが簡単だったのだ。 重いベースマン・アンプと一緒でも小さな車に載せることができたため、 ベース・プレイヤーはステーションワゴンやバンのような大型車を持たなくてもよくなった。 エレクトリック・ベースが出現する前、 大きなアコースティック・ベースを車の屋根にくくり付けて移動するバンドの姿は珍しくなかったのである。1950年代前半、ドン・ランドールとF・C・ホールの目覚しい働きにより、フェンダーのエレクトリック楽器は広く普及していく。
プレシジョンには、大金を出しても惜しくない重要な長所があった。 ダブル・ベースに比べると音量が大きいばかりでなく、非常に軽量で持ち運びが簡単だったのだ。 重いベースマン・アンプと一緒でも小さな車に載せることができたため、 ベース・プレイヤーはステーションワゴンやバンのような大型車を持たなくてもよくなった。 エレクトリック・ベースが出現する前、 大きなアコースティック・ベースを車の屋根にくくり付けて移動するバンドの姿は珍しくなかったのである。1950年代前半、ドン・ランドールとF・C・ホールの目覚しい働きにより、フェンダーのエレクトリック楽器は広く普及していく。

2度目のモデルチェンジ
1957年、プレシジョンに2度目のモデルチェンジが行われた。 外装の変更がほとんどで、 1954年の時と同様、 ストラトキャスターのデザインに合わせるためだった。 ピックガードはストラトに合わせた形に変更。 電気シールドの意味もあったクロームめっきのコントロール・パネルを廃止し、代わりにシールドを兼ねるゴールドアノダイズド・アルミピックガードを採用した。 前年の1956年、スチューデント・モデルのミュージックマスター (Musicmaster)、 デュオ・ソニック (DuoSonic) に導入した仕様である。 ヘッドもテレキャスターに合わせた形から、一見してストラトキャスター・スタイルとわかるデザインに変更された。 ブリッジとピックアップ・カバーも一新されたが、最も大きな変更はこういった外装の下に隠されている。 まずは新式の4サドル・ブリッジ。弦ごとにイントネーションと高さを完璧に調整できるタイプで、長年の懸案がついに解決された。 しかしさらに重要な変更は、 新デザインのピックアップにあった。 レオは、自分が以前開発したシングルコイルのベース用ピックアップだと、弦を強く弾いたとき強烈なアタック音がスピーカーから響くことに気づいた。 このアタック音を小さくするために、彼は2個のマグネットが各弦に対応するピックアップを開発する。
8個のマグネットを等間隔に並べて4本の弦の下に配置するために、レオはピックアップを2つに分割し、 コイルを逆向きに巻いてハム音を防止(「ハムバッキング」) した。 このスプリット・ピックアップの導入によってプレシジョンの音は丸みを帯び、 非常にクリアなサウンドと敏感なレスポンスが実現した。 2トーンサンバースト、メイプルネック、ゴールドアノダイズドピックガード スプリット・ピックアップという仕様の1957年製プレシジョンは、フェンダー・ベースの最高峰とされ、プレイヤーやコレクターから非常に高く評価されている。
8個のマグネットを等間隔に並べて4本の弦の下に配置するために、レオはピックアップを2つに分割し、 コイルを逆向きに巻いてハム音を防止(「ハムバッキング」) した。 このスプリット・ピックアップの導入によってプレシジョンの音は丸みを帯び、 非常にクリアなサウンドと敏感なレスポンスが実現した。 2トーンサンバースト、メイプルネック、ゴールドアノダイズドピックガード スプリット・ピックアップという仕様の1957年製プレシジョンは、フェンダー・ベースの最高峰とされ、プレイヤーやコレクターから非常に高く評価されている。
プレシジョンベースは、その登場以来、音楽シーンに大きな影響を与え、様々な改良が加えられてきました。
- 1957年のモデルチェンジ: ボディ形状がストラトキャスター(Stratocaster)のようなコンター加工(体にフィットする曲線的な加工)が施され、演奏性が向上しました。ピックアップもシングルコイルからスプリットコイルに変更され、より太くパワフルなサウンドが得られるようになりました。このモデルチェンジ後のスタイルが、現在でもプレシジョンベースの基本的なスタイルとして広く知られています。
- 1960年代以降: 指板材の変更(メイプルからローズウッドへ)、ピックガードの素材やカラーの変更、ヘッドストックのロゴデザインの変更など、細部にわたる仕様変更が行われました。
プレシジョンベースの標準仕様
ブッカー ・ T& ザ・ MGズのベーシストとして活躍した若き日のドナルド・「ダック」ダンは、メイプル・ネックにアノダイズド・ピックガードのプレシジョンを愛用。
1960年代初めにダンが作り出したリズミカルでメロディックなスタイルは、多くのベーシストの目標になった。1950年代末、 プレシジョン・ベースのデザインはさらに変更された。1958年、 サンバースト・フィニッシュが2トーンから黒/赤/黄の3トーンへ。 1959年にはローズウッドの指板がフェンダー弦楽器すべての標準仕様になり、 それに従ったプレシジョンの外見も弾き心地も劇的に変化した。 同年、 ゴールド ピックガードが模造べっ甲 (トータスシェル)に変更。 これに伴い、 シールド用としてピックガードの下に薄いアルミシートが張り付けられた。 この最後の変更は1960年代を通じてプレシジョンベースの標準仕様となる。
ミュージシャンたち
ミュージシャンたちは1950年代にエレクトリック・ベースの奏法をマスターし、1960年代に入るとベースの新たな役割を開拓し始めた。 その1人がロサンゼルスで活躍したキャロル・ケイだ。

本来ギタリストだったが、 1963年に偶然代役を務めたことがきっかけでベーシストに転向。 プレシジョンベースを操る彼女は、セッション・ミュージシャンとして絶大な人気があった。1960年代から70年代にかけて、 フィル・スペクターやデヴィッド・アクセルロッドといったプロデューサーに重用され、 実に多くの録音に参加している。 スティーヴィー・ワンダー、 アイク & ティナ・ターナー、エルヴィス・プレスリー、 ザ・モンキーズ、ラヴなどとのレコーディングも見事だが、中でもビーチ・ボーイズの「グッド・ヴァイブレーション (Goo「Vibration)」 に収められた彼女のベースは、歴史的名演奏と絶賛されている。
プレシジョンベースの第一人者として、 モータウン・レコード専属バンドだったザ・ファンク・ブラザーズのベーシスト、ジェイムズ・ジェマースンも挙げられる。
プレシジョンベースの第一人者として、 モータウン・レコード専属バンドだったザ・ファンク・ブラザーズのベーシスト、ジェイムズ・ジェマースンも挙げられる。

アップライト式のベース弾きとして1950年代に活動を開始。エレクトリック・ベースへの転向をしぶっていたが、1960年に親友ホレス・ルースから説得され、黒く塗り直された1957年製プレシジョンを買い受ける。以降、新たなベース奏法を編み出し、躍動的でメロディックなスタイルを確立して、 モータウンが1960年代にヒット曲を連発する原動力となった。 1957年製プレシジョンが盗難にあった後、 ジェマースンが手にしたのは、 サンバースト・フィニッシュ、トータスシェル・ピックガードの真新しい1962年製モデルだった。 アンペグ(Ampeg) B-15アンプに繋がれたこの楽器は、 数え切れないほどのヒット・
シングルの録音に使われた。 これほど多くのヒット曲を支えたベースは他にないだろう。 「ゲット・レディ(Get Ready)」 「エイント・トゥ・プラウド・トゥ・ベッグ(Ain’t Too Proud To Beg)」 「ユー・キャント・ハリ・ラヴ(You Can’t Hurry Love)」 「フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ (For Once In My Life)」 「ディス・オールド・ハート・オブ・マイン (This Old Heart Of Mine)」 「バーナデット (Bernadette)」 「ゴーイング・トゥ・ア・ゴーゴー (Going To A Go-Go)」 「ホワッツゴーイング・オン (What’s Going On)」 などは、ジェマースンが愛器プレシジョンを駆使して生み出したテクニックのほんの一部を示しているに過ぎない。 彼はポール・マッカートニー、 ジャック・ブルース、ラリー・グラハム、ブーツィー・コリンズを始め、 後続のプレイヤーたちに多大な影響を与え、エレクトリックベースとドラムの相互作用がダンスフロア・ヒット曲に欠かせないことを証明した。
シングルの録音に使われた。 これほど多くのヒット曲を支えたベースは他にないだろう。 「ゲット・レディ(Get Ready)」 「エイント・トゥ・プラウド・トゥ・ベッグ(Ain’t Too Proud To Beg)」 「ユー・キャント・ハリ・ラヴ(You Can’t Hurry Love)」 「フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ (For Once In My Life)」 「ディス・オールド・ハート・オブ・マイン (This Old Heart Of Mine)」 「バーナデット (Bernadette)」 「ゴーイング・トゥ・ア・ゴーゴー (Going To A Go-Go)」 「ホワッツゴーイング・オン (What’s Going On)」 などは、ジェマースンが愛器プレシジョンを駆使して生み出したテクニックのほんの一部を示しているに過ぎない。 彼はポール・マッカートニー、 ジャック・ブルース、ラリー・グラハム、ブーツィー・コリンズを始め、 後続のプレイヤーたちに多大な影響を与え、エレクトリックベースとドラムの相互作用がダンスフロア・ヒット曲に欠かせないことを証明した。
まとめ
力強くリズムを刻むエレクトリック・ベースを欠いた音楽など、 今日ではほとんど想像もできない。 この発明は、ポピュラー・ミュージックに数々の貢献をしたレオの業績の中で最も偉大なものだろう。 1951年末にプレシジョン・ベースを発表した後、レオは一連のエレクトリック弦楽器の開発に取り掛かる。 彼の頭の中には、マンドリン、バイオリン、さらには新しい6弦楽器のアイデアが詰まっていた。 1950年代が終わる頃、彼は最高品質のエレクトリック楽器の作り手として絶賛されるようになる。ライバルたちはもはやレオの創造品をあざけらなかった。プレシジョン・ベースは音楽史上最も重要な発明の1つとして認められたのである。
プレシジョンベースは、そのシンプルでパワフルなサウンドと、高い演奏性から、ロック、ポップス、ブルース、パンクなど、様々なジャンルの音楽で不可欠な楽器となり、現在でも多くのベーシストに愛用されています。
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